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インタビュー:高橋信裕
寺脇研プロフィール→ |
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主体的に学び、自ら表明し、 かつ議論できる力をつける教育を |
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高橋――まず教育改革に至る道筋から、次に改革の目指すもの、最後に社会教育の中核を担う博物館のあり方という流れでお話をお聞きしたいと思います。 寺脇――教育改革の流れには大きく言って二つあります。一つは子どもにどうあって欲しいかというのと、もう一つは大人にどうあって欲しいかというものです。大人はよく子どもにどうあって欲しいかと口にしますが、大人がお金を使って汚し放題にしてきたのに子どもには環境のことを考えなさいとか、人間はお金だけで生きていってはいけないというのはおかしいわけです。本当は両方を大きく改革しなければいけないんですが、大人の教育をするわけにはいかないので大人は自分で自覚してもらわなくてはいけない。大人の改革はとりあえずおいておきます。 ダイレクトに行政が施策として変えることができるのは子どもの学校教育や社会教育ということになります。今回教育改革をしているのは、中曽根康弘総理大臣の時の臨時教育審議会というのが一九八四年から八七年まで3年間にわたって国民的な議論をした結果、子どもたちの教育も時代にあわせて変えなければいけないし、大人たちも変えなければいけないということになりました。まず子どもに関していうならば日本がキャッチアップ型の社会、そして経済優先型の社会でやってきたところから、一九八五年頃には21世紀の社会はグローバル化、高齢化、あるいは科学技術の進展、あるいは情報化の進展が進んで今日のような状況になることは予測はついていたんですね。それに合う教育に変えていかなければいけない、キャッチアップの経済優先だったら同じような企業戦士を作っていって人とあまり違うことをしないで自分でものをあまり考えないで、組織全体のために社会全体のために動いていくことが有用であった。そういう人間を育てる教育を戦後ずっとしてきた。 おそらく戦前もしてきたのかもしれませんが、時代が変わることによってどういう人間を育てればいいのかということも当然変わってきたんです。そこで出てきたのが自ら学び自ら考えることの重要性で、そうであれば当然人と同じになるわけがないですね。みんな同じで横並びという考え方を変えていく、というのが生涯学習という考え方になるわけですが、生涯学習のなかの「学習」という言葉に対応するわけです。教育というのは教える人の立場からいうことであって、学習というのは学ぶ人自身の立場にたっています、だから教育者中心の教育観から学習者中心の教育観に変えていく、どんな風に学べばいいのかと主体的に学ぶ人間を作っていくことが一つです。 それから、人と同じでなければいけないという考え方というのは、昔に遡れば遡るほどそうなんですね。たとえば社会が貧しくて学習する資源に乏しいとき、つまりほとんどの人が小学校しか出られないというような状況にあるときには、短期間のうちに社会的な知識を習得しなければいけないですから、画一的な横並びのやり方になっていくんですね。けれども今や小学校しか行けないというような人は一人もいないわけで、高校教育も大学教育もすべての人が受けられるようになってくる。生涯学習の「生涯」というのはそういう意味があります。仮に若い時期に教育が受けられなかったとしても一生涯のいつでも受けられる仕組みになってきている。そういう仕組みのなかではみんなが画一的に行う必要はないのではないかということなんです。だから結局今子どもたちにどんな力を付けようとしているかというと、学校教育でもそうだし博物館などを初めとする社会教育の分野での学習においてもそうですが、まず自分で考える、次に自分で考えたことを表明する、隠しておかないということですね。考えたって黙っていたら意味がない。自分はこう思うよということを言う。三番目には、みんなが同じことを考えずに自分の意見を言うということは意見の相違や対立が生まれてくるわけですから、相違や対立をアウフヘーベンできるようにディスカッションしたりディベートできるような力をつけていく。この三つの力がないとこれからの21世紀を生きていけない。 先日ある小学校でこんな授業がありました。小学校の授業だが、先生が教えているんではなくて、総合的な社会科の時間を使って、鯨と捕鯨の問題について考えているNPOの人が入ってくる。そして子どもたちと考えている。捕鯨に反対する人たちがいる、無自覚に捕鯨をつづけてきて鯨を絶滅させるところだった流れもある。それを子どもたちに知ってもらったところで、その二つの考え方はどっちも極端だ、調査捕鯨を節度を持ってやっていくことによって鯨と捕鯨と共生していくという考え方を子どもたちに持ってもらいたい。もう少し考えてもらいたい。 昨日は自然との共生というシンポジウムにいってきました。鯨を一切捕らないということが共生ではないでしょう、ずっと鯨を食べたり使ったりという暮らしをしてきてそれが共生だったんでしょう、一切捕鯨しないとか、食べ尽くすというんではないんですね。木だって一本も切らないわけにはいかないんです。一本たりとも切らせないというのと、どんどん切っていいという両極端にならないように考えていかなくてはいけない。今まではグローバルではなくて、自分の国だけで仲間だけでやろう、それなら大きな意見の対立はないから、なあなあで済んでいたのが今は全くそうはいかなくなった。そこで昔のやり方はこうだったといってもしょうがない。それと同時に、子どもの側を変えるということは大人の側も自然と考えなくてはいけない。たとえば総合学習を子どもに与えよ、といった瞬間に教師は死にもの狂いで考えなくてはいけなくなるわけです。 今までの授業では誰もついて来なくなるわけだから、教師を変えるとき教師に教え方を変えなさいというのではだめなんで、子どもがこういうことを学ぶよというときはそれに対応するというやり方をしなくてはなりません。親も子どもが自発的な活動ができるように学校週五日制にしますというとき、今までは学校に全部預けっぱなしにしてなにも考えなくて良かったけれど、今度は土曜日曜にうちの子がどんな過ごし方をすればいいのかということを考えなくてはいけなくなってきている。学校の学習内容の3割削減というのは、国が一律にやっていたことを3割減らすという規制緩和のことで、規制されている方が楽なんですから規制緩和されたら自分で考えなくてはいけない。だから全ての学校が7割方は国のいうとおりやっていなければならないがあとの3割は先生が考えなくてはいけない。そうすると親もうちの子が通っている学校ではどういう教育をして欲しいのかということを考えていかなくてはいけない。 本来大人と子どもは不即不離で、大人を変えられれば一番いいんだが、大人は変えられないので子どもを変えることによって大人を変えるという構造のなかで、教育改革というよりはもっと大きな社会全体の意識改革に結びつけたいというのが基本的な大きな流れですね。
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