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| 日本玩具博物館は、私が26年前に個人の意志で設立した博物館です。玩具博物館は
現在、日本中に30〜40館ほどあると思います。私どもの博物館は昭和49年の11月設立
ですが、当時は他には倉敷と高山にしかありませんでした。しかも郷土玩具が中心の
博物館でした。最近ではブリキ玩具を中心としたものなど、いろいろなものが流行り
のように観光地にできております。 私がこの道に入ったのは、昭和38年に朝日新聞社の記者をされていた斎藤良輔さん が書かれた『日本の郷土玩具』という本を読んだのがきっかけです。その本には日本 の郷土玩具が世界的に見ても評価されるべき素晴らしいものであるにも関わらず、忘 れられ消えてしまいつつあるものが多いと書かれていました。その本に触発され、本 の巻末に郷土玩具を作っている日本各地の作者の名前がありましたので、会社勤めの 余暇に作者たちをたずね歩いてまいりました。 日本各地を歩きますと、地元からも忘れられ細々とやっているところが本当に多か ったのです。後に「ふるさとブーム」が起こり、各地でそういったモノを作られてい る方に光が当たるようになるわけですが、私が歩き始めた昭和38年頃はそういったも のになかなか光が当たらなかった時期でした。 こうして会社の休みの日になるとリュックを背負って、歩き回ったわけです。その 中で大分県の豊後高田の凧を作られている提灯屋さんをたずねた時、その人から「イ ギリスの大英博物館から注文があったけれども、日本の博物館の類からは注文が全く ない」という話を聞かされました。また当時、各地の博物館や民俗資料館、郷土資料 館、歴史博物館を見ても、玩具というものが博物館資料として評価されていない現実 を知りました。「日本の玩具はロシアと並んで、世界的に評価されるべき庶民の文化 財である」と斎藤さんは言われているわけですが、それならば誰かが光を当てないと いけないのではないかと考えるようになりました。 そこで収集品が数千点を超えた頃、知人の県会議員の紹介で、地元の自治体に「玩 具の博物館を作って欲しい」という話をしたこともありました。ただ今から30年近く 前のことであり、私も30歳前でしたから、そんな若造が言ったところで「厄介者の荷 物を押しつけられるだけではないか」という危惧を、今思えば向こうは抱かれたので はないかと思います。そうしたやりとりの中から、自治体に玩具の博物館を作っても らうことはなかなか難しいことも痛感し、「それならば自分でやってみよう」とスタ ートしたのが当館の始まりです。 当博物館のロケーションは姫路から播但線というローカル線で北の方へ上がったと ころにあります。今は電化したので15分で着きますが、昔は25分かかりました。博物 館のある香寺町は民俗学者の柳田国男先生が生まれた福崎町の南にあります。私は元 々姫路市内の生まれですが、家内の里が香寺町にあり、「民俗学者の柳田国男の生ま れ故郷に玩具の博物館を」という私自身の思いから、新築した自宅の一室を展示館に スタートしました。展示場も46uしかないミニ博物館でのスタートでした。昭和49年 頃はまだ博物館や美術館がそれほどできていない頃でした。姫路市にも今は県立博物 館や市立の美術館がありますが、当時は公立の博物館や美術館がありませんでした。 一サラリーマンが小さいながらもそういう博物館を作ったということで、かなりの反 響を呼びました。例えばNHKで全国放送されたこともあり、遠いところからはるば る見に来られるようにもなりました。 しかし、46uというと本当に小さいスペースで、私が持っていた資料の5000点の三 分の一しか展示できず、訪れていただいた方に少しでも満足していただこうと施設を 拡張することを考え、昭和51年に建物をもう一つ建てました。ただ、私は一サラリー マンにすぎず、資金もなかったので、大工さんを雇い入れて行う、田舎方式で、実 質的に建てていきました。私も大工さんの下働きをして、経費を浮かしました。 そうしてスタートしたわけです。その後、施設も資料も順調に増えていき、開館し て10年目の昭和59年に先発である倉敷や高山の玩具資料館を、施設面でも資料面でも 追い抜きました。それまでは、私個人が集めた資料だけを展示していたために井上郷 土玩具館と名乗っていたわけですが、コレクションの寄贈を受けたこともあり、将来 的な展望をふまえ、名称を日本玩具博物館と改めました。それを契機に27年間勤めた 会社を辞めました。45歳のときでした。 |
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