生涯学習時代に苦学を強いられる博物館−博物館のリストラに備えよう−
〜『文環研レポート』19号より〜
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■独立行政法人・国立博物館の所蔵資料の放出

 一方、国から地方自治体に移管、譲与されることによる文化財の移動も目立っている。盛岡市の北方に位置する岩手県二戸市が設置、運営する「田中舘愛橘記念科学館」は、1999年(平成11年)9月にオープンした施設だが、田中舘博士の関係資料は、ゆかりのあった国立の機関から寄せられたものである。国から地方自治体への文化財移動については、近年の「赤羽刀」(あかばねとう)が特記するに値しよう。

 時代は終戦直後に遡る。1945年(昭和20年)8月15日を境に我が国はGHQ(連合国総司令部)の統治下に置かれることになる訳だが、進駐してきた連合軍は我が国の武装解除の一環として早速、国内の刀剣類を接収した。その数は数十万本と言われているが、多くは、海外に流出したり廃棄されたりした。これらの一部は現在の東京都北区赤羽にあった「アメリカ第8軍兵器補給廠」に集積されて、この2年後の昭和22年、当時の刀剣関係者や識者の尽力により、美術的な価値のある刀剣類が選別されて上野の国立博物館(現東京国立博物館)に移転された。その数、およそ5500本余。この刀剣類が、接収時の保管場所である「赤羽」にちなんで「赤羽刀」と通称されているのである。これらはその後、所有者が判明した一部(昭和30年までに1132本が旧所有者に返還されたが、所有不明の刀剣類が4576本残った)については返還されたものの、その大半は近年に至るまで、東京国立博物館の収蔵庫に眠ったままにあった。このうちの国庫によって研磨されなかった刀剣類約3200本が、無償で希望する全国の公立博物館、美術館に供与されたのである。(注8)

 1999年(平成11年)12月から文化庁を通して活発に実施され始めた「赤羽刀」の地方自治体への譲与は、北海道から沖縄まで全国にわたり、各地で「赤羽刀展」が開催された。

 無論、地方ごとに求める刀剣にもそれぞれ希望があり、“備前刀”で有名な岡山県では備前刀を中心に227本(口)が県下6施設に里帰りし、福岡市博物館では、“筑前刀”を中心に60本の譲与を受けている。山口県立博物館では、鎌倉末期から江戸末期にかけて周防、長門の刀工によって鍛えられた35本を求めている、といった状況であるが、日本刀とは無縁の北海道地方でも「日本人の歴史と美意識の表現である日本刀を市民に親しく接する機会として、また博物館活動の展示活動の広がりを持つものとして、29本の刀剣類の無償譲与」をしてもらっている。(注9)

 「赤羽刀」の地方への移転分散は、我が国の伝統文化の普及や歴史遺産の保存、伝承及び文化財共有意識の醸成に大いに貢献するものであり、歓迎されるべきものと思われるが、

 この方針の背景には、独立行政法人のもとで博物館経営を合理化していかざるを得ない国立博物館の台所事情がある。これらの刀剣類の譲与は、管理、保存するのに多額の費用を必要とすることに対する、国立博物館の窮余の次善策である。博物館のリストラは、想像以上に深刻さを増しているのである。この動向に、我々はもっと注意を向けてもいいのではなかろうか。刀剣類のような、すでに美術品として、また文化財として価値付けられ、市場でのオークションの対象ともなる「財」の受け入れは、世論や議会を配慮しても自治体サイドの受け入れは容易である。ところが、市場での価値も低く、人気や集客効果をもたらすことも期待できない資料は、投資費用に見合う効果や経済的な効率性を評価軸に置く「行政評価」のもとでは、もてあまされる存在となる。理科系の研究所の例だが、わが国有数の規模と質を誇る産業技術総合研究所(独立行政法人)でも研究スペース1mを1年使うごとに1万円が課される「スペース課金」が実施され、場所をとる標本の多くが処分されたという。(注10)

 もともと、博物館資料は、市民や社会の共有資産(文化財)として位置付けられるものであり、財宝や宝物などがもたらす市場性や集客性とは、その立場や性格を異にするものである。ところが、現実の社会においては、あらゆるモノに「値」(経済的価値)がつき、つけられる。金銭がまとわりつく取引、ことに公有資産をオークションにかけ、売買するという行為は、わが国の行政体質では、なされにくい。加えて一旦収蔵、保管された資料の廃棄や売却などの処分は、寄贈者への手前や世論、議会への配慮などから極めて難しい。一番いい方法は、ゴミとして人目をはばかりながら廃棄することである。それを避けて図書館などでは、所蔵してきた図書をリサイクル本として公開し、市民個人に無償で譲与することが近年多くなってきている。同じ文学書でも博物館(文学館)がその資料を博物館資料として処理する場合と図書館が廃棄本として処分する場合とでは、資料の位置付けと認識の仕方に大きな違いが認められる。実際、博物館(文学館)の資料(図書)が、一般市民に無償、あるいは有償でも譲与される可能性は低い。その反面、図書館資料の市民への無償譲与は、今後とも十分に考えられる。もっとも、市民の手にわたった図書館の廃棄本は、ゆくゆくは家庭のゴミとして打ち捨てられ、灰燼に帰すことになるのであろう。効率化と合理化がすすむ図書館の書籍は、今の社会の中では消耗品化しつつある。一方、博物館資料は消耗品としての扱いはなされないし、なされるべきではない。そういった観点に立つと、仮に博物館資料が地域や家庭にわたるとすれば、資料の里親として保管、管理するといった仕組みと形態がふさわしい。


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