『Cultivate Vol20 特集◎博物館とコラボレーション事業』より
茨城県自然博物館 館長 中川志郎
プロフィール
インタビュー/高橋信裕
![]() |
| 中川志郎 |
高橋――博物館における「対話と連携」について、それがどこまで浸透しているかというところから、お聞きしたいと思います。
中川――正直言うと、まだ日本の各博物館の中で個々に動き出して成果をあげつつあるとは申し上げかねると思います。今まで日本の博物館は、それぞれの博物館が努力を続けてきましたが、それは館独自の中に留まっていました。美術館、歴史館、動物園や水族館というように、同系列のものが集まって切磋琢磨するに留まり、全体の博物館を横断的に捉える視点に欠けていたと思います。日博協としてはこの弱点を改善し、博物館全体のムーブメントにしないと元気になれないのではないか、と考え、「対話と連携」を提唱したわけです。
そもそものいきさつは、日本の博物館はまだ若いということと、コレクションとかスタッフとかいろいろ考えてみてもまだまだ一個一個の「博物館力」に差があって、それをプッシュアップしていくところまでいかない。だから何よりもまず横の連携をとっていこうと。そうすると今まで見えていなかったものが見えてきたり、「こうすれば1足す1が3になり5になる」という考え方が生まれてくるだろう。そこでまず館内を固め、博物館同士の対話の場に出てもらい、それが地域に広がっていくのが大事だということで始めたんです。
高橋――博物館は社会教育施設の中でも特に鎖国的なところがあるのではないでしょうか。内側に力が向いていて自己完結することによって影響力を発していく。それは日本の博物館独自の特色なのか、あるいは博物館としては、そうならざるを得ない宿命なのでしょうか。
中川――ご指摘のように博物館というのは従来は自己完結型で、外に開かれることがあまりなかったと思います。博物館がこの世に誕生した由来を考えてみると、だいたい個人のコレクションとか個人的な趣味の延長線上にあり、どちらかというと多くの人のためにそれが存在するというよりは自分たちが楽しんだ結果、皆さんにもどうぞ、というようになってきたのだと思います。
それが最近になって生涯学習時代が始まり、我々が手本としているアメリカでもイギリスでもそういう動きがものすごく強烈に浮かび上がってきました。イギリスのようにコレクションというのは国民からの預かりものだ、と言いきってしまう国も現れるほど、本格的に開かれた博物館への脱皮を計ったわけです。知識というのが一部階級の占有物だった時代から市民のものになった生涯学習社会では、自己完結型、内包型では存立しえない。イギリスはいち早くそれに気付いて、博物館をもう一度市民に開かれたものにしなければならないとし、アメリカもフランスもそうなったのだと思います。日本は放っておくと世界の後進国になりかねないという思いがありました。
高橋――コレクションというと、日本の場合は私立の美術館・博物館にかなりのストックがありますよね。公立と民間を比較すると、コレクションの質と量では、どちらかというと個人・民間の博物館のほうが充実していると思うんです。博物館の機能からすると、市民は公立・民間を問わず同じ位置付けで利用すると思うんですが、そのときにやはり対話と連携ということが博物館側で必要になってくると思います。市民のニーズをどう受け止め還元するかという博物館の責任です。そのときに、私立と国公立の博物館の格差、温度差があると思いますが、対話と連携の中でどのように対応してきているのでしょうか。
中川――そこは大きな問題なんです。日本の博物館がある意味では顕著なんですが、私立の博物館はまずコレクションありきなんです。それから入れる器として美術館なり歴史館なりが建設されるというプロセスです。ところが公立の博物館は、考え方としてまず箱物がありきなんですよ。例えば自治体の長が任期中に博物館をひとつ作ると言うと、コレクションのあるなしに関わらず箱ものは出来てしまう。するとせっかく箱物が出来たんだから、そこに入れるのにふさわしいものを集めようと、それから始まる。だから中身の多くはオリジナルより複製品であったりするものが多い。
私立のほうはまずコレクションありきで、集める人はお金がたくさんあるか目利きですから非常に優れたものが多い。公立のほうは、コレクション主体というよりどうしても器主体になりますから、外観は立派だけど、中にあるコレクションは海外に比べるとはるかにプアであるという状況が現在でも続いています。そのように考えると、民間の優れたコレクションと、公立のある意味で優れた器とが合体したときに、日本の博物館としてはかなり良いものがありうるのではないか。その価値をお互いに認め合うことが対話の前提で、その対話がなされないと連携がうまくなされないと思うんです。
高橋――コレクションのあるなしに関わらず、民間でも公立でも箱物がある中で、今は博物館や美術館がしのぎを削らなくてはならない時期に来ていると思います。民間からしてみれば、同じような施設が公立でも出来て、民業の圧迫だというような言い方も出来ますよね。せっかくこれだけの入場者がいて、レストランなどもつくって収入もあって何とか息をついでいるのに、ものすごく安い料金で、税金で作った施設にお客が取られていくというのはおかしいのではないか、ということで逆に民間のミュージアムが自己完結型の保守的な姿勢をとっている。「我々が持っている国宝クラスのものをなぜ公立に貸さなくてはならないのか」と。これからは市場原理の中にミュージアム運営もゆだねられていくと思いますが、民と官というしのぎの削りあいというのは、これからも続くのでしょうか。
中川――公立でなければ出来ないものを公立がやり、民間で出来るものは民間がやるほうがいいというのが基本的に今の政府の考え方だと思いますし、原則的にはそうだと思います。ただ、日本が博物館法の中で公立の博物館を定めてきた最大の理由は、日本には優れたコレクションを持った私立の博物館があるとは言っても、やはり全体の文化レベルからすると諸外国に比べればまだ極めてプアだという考え方があって、公立が基本的に鑑賞の対価としてお金を稼ぐのではない、純粋な施設として博物館を設置しなくてはならないという部分があったと思うんです。だから博物館法は入場料は原則無料であると定めた。
ところが、最近の風潮からすれば博物館もまた集客施設のひとつであって、お客さんに見てもらわなくては意味がないとなっています。公が国民に文化的なものを提供するというところから適当な対価を得て運営するという方向に変わった。私企業と公企業との区分がだんだん曖昧になっています。これは過渡期だと思っています。というのは、今まで税金でやってきた公立の博物館があまりにも一方的で、市民に対するサービスよりは自分たちの職場としてその場所を考えているということが強すぎたために、私立のような切磋琢磨の努力をしてこない点があった。納税者である市民に対して充分なサービスをしてこなかったのを、なんとか本来の形に戻そうとなっています。その出方が、より民間の競争という点にぶれている。
でもそれは近い将来おそらく落ち着くところに落ち着くと思うんです。ネコも杓子もお客さんの利用率だけを考えるなかから、本当の博物館の利用の仕方を考えるように利用者も目覚めていくと思います。文化というのは、安かろう、悪かろうというものではないですから、そういう意味では日本の市民もその渦中で試行錯誤の真っ只中にいるのではないかという気がしています。
高橋――国を挙げて生涯学習社会だということで文化芸術振興基本法などが出来る中、芸術を国だけではなく地方自治体も含めて大きな課題として取り組んでいこうという割には、博物館の統合・廃館・閉鎖という厳しい現実が目の前に展開されています。公・民を問わず冬の時代ですが、生涯学習時代の社会の中核になるべき施設が、そういう掛け声とは裏腹にだんだんしぼんでいっているという現実は、どういうところに原因があるのでしょうか。
中川――基本的に今の経済政策の中で不良債権処理みたいなことが厳しく言われていて、その影で倒産していく企業がたくさんあり、整理されて生き残ったものが優良企業であるという考え方があると思います。博物館も、経済的な指標でこれは要らない、これは要る、というように企業や産業の施設と同じように見られてしまう。入場者数だとか入場者収入といった経済指標でしか博物館が評価されていないのが現状です。そうなると、私企業と同じように自立できないものは整理されて当然だという考え方になってしまう。
それは、今までの博物館が自己完結型・内包型で、自分の存在というものを社会の人に理解してもらうという努力が足りなかったのだろうと思うんです。それがいわば我々が対話と連携を提唱する最大の理由だし、小さい博物館には小さい博物館なりの社会的な価値があり、経済的な指標だけでは計れないものがあるのだということを前面に打ち出していこうというのがその形なんです。
高橋――阿蘇の火山博物館が閉鎖するというニュースがありました。私立の博物館であってもかなり公的な活動をしてきたのですが、そういう博物館が閉鎖する方向に移行しているときに、博物館全体が連携をとって何とか存続していこうという活動は望めないのでしょうか。
中川――閉鎖の理由がほとんど経済指標でジャッジされ存続の意味がないということで切られています。正直に言って我々は、経済的な指標としては低いけれど文化的な指標としては非常に高いものとして社会的なバックアップを得るための運動を今までほとんどしてこなかった。博物館が仲間同士としてそういうものに歯止めをかける活動をすればいいという考え方も当然あると思うのですが、残念ながらそれが市民運動、国民運動になり得るかというのが一番の問題なんです。
博物館の存在そのものが文化的なものとして社会的な貢献度の高いものだという認識が社会にあれば、多くのサポーターが出て存続の声が大きくあがっていろんなところに働きかけるということが出てくると思いますが、今のところ、博物館の力の弱さや従来の自己完結型の活動の欠陥が出ています。我々が対話と連携、あるいは望ましい姿というのを打ちだしている背景には、社会においての存在理由を遅まきながら今から植えつけていかないと、博物館には未来はないということがある。自然淘汰を繰り返しても仕方ないので、根っこのところをきちんとしておかないと、日本の博物館の未来は極めて暗いものになってしまうと思います。社会的な貢献度を高めるためにはどうあるべきか、社会の中で存在理由を認められる博物館を目指そうというのが、今の運動なんです。