【Cultivate Vol23 特集◎博物館の情報戦略】より

デジタル文化財の化膿性

常磐大学教授 水嶋英治 プロフィール


ミラーボールのような日本の魅力を発信することの大切さ

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水嶋英治

 化膿性とはあまり美しくない表現である。

 「可能性」の間違いではないか、とすぐにお叱りを受けるだろう。しかし、現在の状況を一言で言えば、これ以上ぴったりする言葉は見当たらない。今、私たちの前には、目に見えない大きな障壁が立ちはだかっている。技術的には、デジタル化することは簡単にできるようになった。しかし、著作権の壁にぶつかり、使うに使えない情報が生み出されている。情報技術の進展は、ここにきて新たな転換期を迎えているのではないか。情報戦略が間違っていたのではないか?…との疑いを持ちたくなる。

 本稿では、博物館情報の限界と、それを打ち破るための新たな戦略について論じてみたい。

 批判することが、ここでの目的ではない。かつて、博物館に身を置いた者として、冷静に現状分析をしたあと、博物館の情報戦略を構築するための課題を整理することが目的である。

博物館情報の考え方

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 やや大袈裟に言えば、今世紀の博物館の特徴は、博物館資料の概念がこれまでにもまして拡大してきたことだろう。それは、情報資源ということばが登場してきたように、情報が主役になったきらいがある。さらに情報化社会から情報社会に移行した結果、 「情報資源」という考え方自体にも変化があらわれた。中には、 「デジタル財」という考え方も登場したのである。一方、IT環境も変貌を続けている。日本は、世界一のコンピュータ科学技術を持った国であるが、こと博物館界に限定して観察すると、ハードウェアに翻弄されすぎている。たとえば、メディアの変換に多大な労力(人と時間と経費)を有しているのは周知の事実である。博物館で新たな投資をするならば、情報戦略の定期的な見直しと資料整備の中・長期戦略が必要であろう。では、翻って、博物館の「情報」とは何か。いくつもの定義が可能である。ここでは、次の範囲ととどめておこう。

●資料・コレクション情報 collection information
●管理・運営情報 activity information
●経営・財政、人事情報 management information
●ネットワーク上の情報資源 information
●その他

では、博物館情報は、一体、誰のための情報か? これは四つに分類できる。

●一般の来館者(年齢層による)
●教員、学校関係者
●専門家、研究者
●インターネット上のビジター

ここで考えておかなければならない点は、誰を対象にするかによって、情報戦略は異なるという点である。たとえば、次の人たちが求める情報は異なることは誰でも判断がつくだろう。

●館長、理事会、評議会、外部管理組織
●第三者評価機関、評価委員
●学芸員、研究者、専門家

ポテンシャリティの低いデジタル情報

 ところで、せっかく制作した「デジタル情報」が腐り始めている。誰もが気がつき始めていると思うが、ネットワーク社会では、デジタル情報の潜在可能性は予想以上に低かった。使うに使えない。著作権の壁があまりにも高かった。このことをようやく社会が認識するようになった。たとえて言えば 、活きのいい活魚が、長い時間空気にさらされた結果、変色してしまい、食うに食えない状態である。

 これを形容すればデジタル情報の「化膿性」とも言えるのではないか。毒素が回らないうちに、早急に、 この膿を出さなければならない。昔から、こうならないように警鐘を鳴らす学者もいた。たとえば、慶応大学・環境情報学部の奥出直人教授は、博物館のような「パブリックドメインはコピーライト・フリーという発想が必要だ」と主張している。 (注)

 文化資源が情報技術のおかげによって花開く…と、誰もが夢を見てきたが、今大きなハードルを(……くぐってしまえば、問題ないのだが……)飛ぶに飛べない状況にある。閉塞感は情報化の世界にも忍び寄ってきた。

 デジタル化された情報が、実り多い資源となるか、反対に、美しくないデータのゴミとなるか?夢を語り、可能性を描き、バラ色の夢を見ることが一体できるのだろうか?

 そのために準備しておかなければならないことを整理しておこう。鳴っては欲しくはない警鐘の音ではあるが、次への足掛りとなれば化膿性が「可能性」へと変わるかもしれない。

警鐘1−コミュニケーションの変化

 思考方法が変わりつつある。文字が書けない、文章が書けない学生が増えている。その理由のひとつは、マンガの影響もあるだろう。ビジュアル世代にとって悲しいことは、 「作文の時間」も学校でなくなっている点である。こんなことも一因かも知れない。しかし、それ以上に、社会的な背景もある。社会全体がビジュアルな世界・絵文字文化になっているのである。もはや、画像なしでは、コミュニケーションが成立しない。文字社会から画像社会になっているのである。

 著作権や著作者人格権、著作隣接権の保護は当然だとしても、その当然が、思想的(文章的)なこと以上に、画像、グラフィックなどの作品について言われているのは、その表れである。では、一体、本当に、真の意味で、個人が新たに創りだした情報というのは存在するのだろうか。もし、あるというならば、どのように新規性の証明が可能なのだろうか。

 その新・情報は、個人が、何もないところから、いわばゼロから出発して創造したわけではあるまい。もしそうだとすれば、よほどの天才である。「文化と教育のない世界」の中で、人が育てば、それはオオカミ少年になるのである。

 私たちは、文化、社会、教育の中で、先人の教えを乞いながら成長してきたはずだ。権利の主張をしすぎである、と思うのは私だけではあるまい。「著作権の放棄をしろ!」と言うつもりは更々ないが、教育利用や博物館利用はもう少し社会的な配慮をしなければ、これからのデジタル文化の発展はあり得ない。コンテンツのない文化は成立しないからである。一方、権利の主張とは裏腹に、使い捨てへの戒めも指摘されている。「文化の多様性に関するユネスコ世界宣言」では、文化資産を次のように定義し、文化資産についての「ポイ捨て」に警告を出している。ユネスコ宣言に耳を傾けてみよう。
(第8条 文化資産と文化事業ユニークな商品)「創造と革新への期待を大きく膨らませる現代の経済・技術の変化に相対する時、特に注意を払わなくてはならない点は、創造的な作品供給が多様性に富んでいなければならないこと、著作家・芸術家の権利に対し正当な認識を持たなければならないこと、また文化資産及び文化事業は、独自性・価値・意味の発信源として特殊なものであり、単なる商品或いは消費財として扱われてはならないということである。 」

 コミュニケーション形態が変化しているのだから、それに対する対応策も考えておかなければならないのではあるまいか。思想は使い捨てではない。受け継がれていくものである。デジタル情報も消費財であってはならない。

  「コピーペーストゴミ箱!」というのでは、あまりにも、虚しい世界である。

警鐘2−用語研究の不在

 情報検索の効率性は、図書館情報学の世界では議論のテーマとなることはあっても、博物館の世界ではあまり真剣な議論になっていない。 これは、図書館の取り扱う資料が「文字情報」であるから、検索後も目に見える形で取り扱うことができるのに対して、博物館資料は、その非文字性によって、文字化することに困難が伴うからである。文化的・歴史的価値をもつ物的資料に対して、用語づけをすることは、その分野の専門家でしかできないからであろう。

 しかし、一度、文字化された情報を取り扱う場合は、やはり検索語に対する意識をもっと働かせなければならない。

 ひとことで言えば、検索用語、シソーラス、術語学(ターミノロジー)不在の世界に、効率性を求めること自体に無理がある。

 イギリスのミュージアム・ドキュメンテーション委員会(mda)は、地道ながら、博物館資料の登録プロセスを三十年にわたって研究を続けてきた。現在の研究テーマは、シソーラスの開発だという。

 ネットワーク社会に対応するためには、資料に関する用語学の確立を真剣に考えなければならない時代に入っているのである。

警鐘3−隣接領域の研究不足

 教育資料の蓄積は国力にも影響する。教員が創りだしてきたコンテンツをどのようにデジタル化するか、あるいはどのように管理するのか、という議論は、実は二十年前にも教育界で議論されたことである。今、まさに同じテーマで、博物館界で議論が起こっているのである。

 コンテンツの評価の問題も、 まさに同じである。後藤忠彦・岐阜女子大学副学長が以前、日本博物館協会主催による情報部門の研修会で「注射器や注射針を通産省が形や品質を定めても、薬という中身は事務職には評価できない」と手厳しく語っていたのを覚えている。確かに、博物館資料をデジタル化したときのコンテンツの評価という問題は、専門家集団がきちんと議論をした上で評価しなければならないように思う。

 それにしても、 隣接領域の研究不足は否めない。図書館情報学やアーカイブス学、教育工学やメディア工学、認知心理学や教育心理学、歴史学など、博物館メディアに関連する学問は、ありとあらゆる分野の専門家と議論する場を設けていかなければ、新しい領域を開発していくことは不可能である。ティモシー・アンブローズが『博物館の設計と管理運営』 (東京堂出版)の中で言うように、「同じタイヤを二度発明する必要はない」し、その時間があるならば、他の分野の知識吸収や議論の時間に費やすべきである。

 過去に、どういう文化情報が提供されてきたのか、そのうち、どれがデジタル化されているのか。二次情報の利用、活用、流通の検討が、大きな課題となっているのである。

 蛇足ではあるが、一次資料がなおざりにされていく危惧もある。そうならないように、一次・二次資料の双方に目くばせできる「複眼的な」見方と姿勢を忘れてはならない。

警鐘4−ポリシーの欠如

 デジタル化による情報流通の可能性は無視できないのだが、全国的に、あるいは世界的に流通できるようにするためには、国としての方針や文化政策、 情報政策が重要であることは論を待たない。

 国も、地方も、個々の博物館も、根本となる政策・使命・方針を、今一度見直してみることである。ポリシー欠如の実行は、継続性もなければ、一貫性もないのであるから、 「情報の顔」が見えてこないのである。戦略のない行動は、蓄積性も保障されなければ、 拡張性も生まれないのである。

 さて、ここで、視点を変えて、国際的にはどのような考え方がとられているのか、最初に引用したユネスコ宣言を一瞥してみよう。「文化の多様性に関するユネスコ世界宣言」より抜粋してみる。

(第9条創造性の触媒としての文化政策)「文化政策は、思想や作品の自由な流通を保証すると共に、様々な文化資産の創造・普及が出来る条件を創出しなければならないが、それはその地域や世界レベルで活動の手段を持つ文化産業を通じて行われるものである。それゆえ、各国はそれぞれの国際的責任に十分配慮しつつ、文化政策を決定し、運営上の援助、或いは適切な法規作成など ,その国に適する手段でその政策を実施するのである。 」

 抽象的な表現であるが、ここで留意しなければならない点は、 「国際的責任に十分配慮し」の部分であろう。デジタル化された情報は、場合によっては国際紛争の火種になりかねない危険性を孕んでいる。創造性の触媒として機能するか、あるいは、文化の破壊性の道を選ぶか……。
 それも文化政策次第なのである。

警鐘5−目録不在の現状

 わが国の博物館には、「目録がない」。

 こう言うと……、「何を、ご冗談をおっしゃる!」と言われそうだが、 『博物館白書 平成十一年度版』 (日本博物館協会編)によると、実は、わが国の博物館の五割近くの博物館には「資料目録」が不在なのである。このような、お寒い状況では、デジタル化以前の問題であろう。いや、論外である。

 まず、どこに、何があるのか、物理的な所在確認が先決である、その次に、情報的な価値を戦略的に創りだしていかなければならない。「人と入れ物は有り合わせ」とか、 「人と入れ物は有り次第」という諺がある。人なり、器物なり、道具は、その時に使える人やモノを利用すれば良いし、またそれで結構間に合うのだ、という意味である。人や道具は、それが多くても、使い方次第では多すぎることはない、と私たちに教えてくれる。

 ではここで、 「道具」という部分を「データ」と置き換えてみよう。データは多くても、使い方次第では多すぎることはない…ということが、情報社会でも成立しているのである。しかし、それ以前に、やはり目録整備から進めたい。 「急がば回れ」という戦略もあるのだろうから……。「分散」と「集中」は、物理的保存のほかに、情報的な「保存・収集・活用」にも応用できる概念である。概念ということばが抽象的すぎるならば、コンセプトと言ってもよい。カタカナは嫌いだという向きには、 「共通理解できる考え方」と置き換えてもいい。

 いずれにしろ、記述項目の標準化やメタデータの統一性を論ずる前に、自分の館の現状把握が先決である。手順から言えば、次のようなことになるのだろうか。

●自分を知る 自分の館の現状を認識する 利用できる資源の把握(人、設備、コレクション)
●情報を創造するための足場を築く (インフラの整備)
●ポテンシアリティ(可能性)を高めるために、関係者との話し合いの機会を持つ
●来館者(バーチャルビジター、フィジカルビジター)のニーズを考え、提供する情報の価値を考える
●組織力を考え、資源の配分を考える (役割分担と予算)
●情報戦略と将来構想(ビジョン)を考える
●合理的に考える (現実的な実行計画の立案)

 私たちの置かれている状況は、今まさに、漕ぎだそうとしている小さな帆船である。目前に広がる大海の広さと深さは、誰も知らない。広い海原は単なる妄想に過ぎなかったのか。あるいは、近い将来、資源の枯渇によって、干からびた海で、小船は身動きとれなくなるのか。

 大漁を祝い、資源の活用が十分に図られ、資源をたたえた豊曉の海とするためには、多くの解決課題に取り組まなければならない。人生において「自己実現」が永遠のテーマであるように、社会にとっても「社会の成長」、つまり文化資源の開発……成長ということばに置き換えてもよい……は永遠のテーマである。博物館の発展や組織的成長が課題であるとすれば、警鐘が警鐘で終わらせることなく、認識された課題は政策へと高め、実行計画のもとに処理していかなければならないだろう。

 私たちは、情報化を考える際に、その行動によってのみ、次なる階段を上ることができるのである。

 



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