【Cultivate Vol25 特集◎博覧会の意味】より
構成/編集部
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| 瀬戸会場に架けられた木製ブリッジ |
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| 間伐材で造られたベンチ |
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| 長久手日本館の竹ケージ |
愛知万博ではボランティアやNGOをはじめとして、世代、職業から国籍にいたるまで色々な立場の人が色々なやり方で関わっている。ボランティアひとつとっても10代から70代、そして障がいをもった人まで、実にさまざまな人の参加があったという。
こうした多様な人の関わりを支えるのが、今回万博の根底に流れる「ユニバーサルイベント」という考え方である。
NPOユニバーサルイベント協会を主催する内山早苗氏は、
「愛知万博がユニバーサル抜きに語れないのは、時代の当然の流れ。少子高齢化社会の現代にあって、若くて元気な男性を中心にする考え方はもう古いのです」
と、指摘する。
内山氏はまた、
「多様な立場の人が混在するユニバーサルな組織のほうが、実はマーケットでの競争でも一番強いのです」
という。
多様な世代、立場の人たちを受け入れるためには、作り手の側にも多様性が必要となってくる。たとえば、高齢者向けのサービスを若い世代が考えても失敗に終わることが多い。ニーズや気持ちを最もよくわかっている高齢者自身が考えたほうがいいものができるのだ。
これからはどんな組織も「多様性」に対して常に感性の窓を開き続けられるかどうかが問われ続ける。「ユニバーサル」であり続けることが、すなわち「クリエイティブ」であり続けるための条件なのである。
愛知万博は、その意味での「クリエイティビティ」が問われる万博でもあった。多様性の包含が、万博の底力につながっていくことになる。
※内山早苗氏のインタビュー→(PDF・504KB)
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| 圧縮天然がス燃料のシャトルバス |
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| 恐竜ロボット |
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| 女性アテンダント型ロボット |
万博に関するキーワードとして「IT」に触れないわけにはいかないだろう。愛知万博が「IT万博」とも称されていることからもわかるように、今回の万博で「IT技術」が果たした役割は大きい。
会期中の数千のイベント情報の告知、人気パビリオンの予約システムから来場者数の予測に至るまで、万博会場のあらゆる部分でIT技術が駆使されている。ノンフィクション作家の山根一眞氏などは「この万博での『ナンバーワンの出展』はここ(情報センター)かもしれない(日本経済新聞7月16日号)というほど、IT技術なくして、現在の形での万博の実現はありえなかっただろう。
今回のインタビューのなかでも、たとえば天野由利子氏は、
「コンピュータシステムがなければ、三万人ものボランティアの管理は到底不可能だった」
というし、「地球市民フォーラム」の実現にも関わった和崎春日氏は、
「インターネットがあるからこそ、ローカルから全世界にメッセージを発信することができる」
とインターネットの役割を評価する。
だが、そのいっぽうで世界で問題になっている「デジタルデバイド」の縮図のようなことが、このIT万博の会場でも起こりつつある。たとえば、ツアーでやってきた田舎のお年寄りはIT万博の恩恵をこうむっているのだろうか? インターネットでの予約もできず、事前の情報収集でも若者に遅れをとり、会場で右往左往する羽目に陥るのではないだろうか?
先の項で「参加者に求められる主体性」について触れたが、ITはこの要望を確実に後押しするツールである。そして、ITを使いこなせる者だけがますます主体的に楽しむようになる。ITはいわば「能動的来場者」と「受動的来場者」との二極化を進める「両刃の剣」でもあるのだ。
この「両刃の剣」としてのITをユニバーサルな場作りのためにいかに活用していくかは、今後の大きな課題である。
同じテクノロジーでも「ロボット」のほうは、あらゆる世代の来場者から幅広い人気を集めている。これは、ロボットのなかに「人間らしいアナログの暖かさ」を垣間見ようという気持ちの表れなのかもしれない。
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| 木製スロープ |
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| 森の自然学校のゲート部分 |
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| グローバル・ループの階下スロープ |
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| サツキとメイの家 |
愛知万博の総合プロデューサー泉眞也氏によると、万博というものは当初考えたり計画したことの10%ぐらいしか実現できないものなのだそうだ。そして、できなかったことは次の仕事につなげていけばいい。そして、
「『何をやったか』より『何を残したか』が大事なのだ」
と強調する。
それでは、この愛知万博が未来に残すものとはいったい何なのだろうか?
たとえば、19世紀後半に幾度かの博覧会が開催されたフランスのパリは典型的な「博覧会都市」だといわれている。エッフェル塔、オルセー美術館をはじめ、グラン・パレ、プチ・パレ、アレクサンドル二世橋など、おなじみの観光名所のほとんどは万博の産物だ。だがしかし、「自然の叡智」をテーマに掲げる愛知万博の会場は、そもそも「自然を破壊しない」ことが前提条件であり、今でも会場全体の52%に自然の営みが残されているという。名古屋および愛知万博の会場が「博覧会都市」になることはありえない。
あるいは一九七〇年の大阪万博を思い起こしてみた場合、当時の人口の4分の3にあたる六四〇〇万人もの人が訪れた大阪万博は、「太陽の塔」の強烈な印象とともに右肩上がりの消費社会を後押しした。今もって大阪万博の思い出を「衝撃的なできごと」として懐かしそうに語る人は多い。
対する愛知万博の入場者目標は一五〇〇万人、大阪万博の4分の1に満たない。そもそも大阪万博のような派手さはない地元の等身大の万博なのである。だがしかし、入場者数は8月のはじめに、すでに一三〇〇万人に到達した。地道なメッセージは予想外の広がりを見せつつある。
愛知万博が未来に残すのは、もっとソフトで優しいものだ。そして静かに、しかし着実に世の中を変えるパワーとなる可能性のあるものではないだろうか? たとえば、三万人ものボランティアスタッフが培ったノウハウとスピリット。これは決して目には見えないが、愛知万博の後も地元の財産として着実に広がっていくことだろう。
数回にわたる現地への訪問、そして関係者へのインタビューのなかで、我々もまたふたつの「未来へのメッセージ」を見出すことができた。
ひとつは、リアルな「場」に足を運ぶことの価値の再認識・再確認である。
マスメディアによるバーチャルな情報の渦のなかで生きている私たちは、まるで自分たちが「何でも知っている」存在であるかのような傲慢さに陥っている。そして、いつしか「場」に足を運ぶことに価値を置かなくなる。そして、それが「便利で幸せな世界なのだ」と勘違いしている。
だが、果たして本当にそうだろうか? マスメディアが伝えるバーチャルな世界は、リアルを伝えているようで実は多くのフィルタがかかっている。だが、バーチャル情報に身も心もどっぷりつかり切った私たちは、我々を取り囲むバーチャル世界こそリアルであると錯覚するところまできているのではないだろうか。それが本当に「幸せ」なことなのだろうか?
愛知万博は、市民が主体的に参加できる「舞台」を提供することで、「リアル」な場に加わることの意味を再認識させていった。そして、我々もまた、その地に足を運び、「主体的に」万博に関わる人の姿を見たり話を聞いたりすることによって、マスメディアではなかなか実感できない万博の本質的な側面を垣間見ることができたのである。
今ひとつのメッセージは「本当の豊かさ」への回帰である。
顔のない「バーチャル情報」に満足することなく、「場」に足を運ぶこと。それは「ローカル」を感じ、自分たちとの違いを知ることでもある。
そこから、かけがえのない「自分自身」への誇り、そして、自分と同様にかけがえのない「他者」を尊重する心が生まれる。「個」の違いを知ることで、はじめて、それぞれの「個」を尊重することの重要性がわかるのだ。
標準化、規格化は一見便利で効率的なようだが、そこには決して「本当の豊かさ」は存在しない。まどろっこしさ、面倒さも含めた「個」の違いを尊重する気持ちのなかにこそ「本当の豊かさ」が存在する。
愛知万博はそもそもが「ローカルな個」による発信であった。そしてそのなかには、華やかな大企業のパビリオンだけでなく、泉眞也氏がいうところの「小さいけれどキラリと光るもの」が集積する場でもあった。
愛知万博という「場」は、「あなたがたは今、本当に幸せか」というシンプルかつ根源的な問題提起の場なのかもしれない。