【Cultivate Vol25 特集◎博覧会の意味】より

自然の根源へのイマジネーションから新しい地球像が見える

環境デザイナー・プロデューサー 泉 眞也 プロフィール
インタビュー/高橋信裕



人間を幸福にするコミュニケーション・システム

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EXPO ZARAGOZA(サラゴザ)2008の全体計画図と同じ
エコシステムのエリア毎に色分けされた世界地図(右)

高橋―この特集のタイトルである「博覧会の意味」という大きな視点から、「愛・地球博」を含めて博覧会の過去・現在・未来を語っていただきたいと思います。

―実は博覧会というのは紀元前二〇〇〇年くらいからあるんです。当時のルールは「殺すなかれ」というひとつだけなんですね。いまみたいにうるさいことは言いません。近代というのは、とにかくやたらにいろんな制約が付く。それは良くないですよね。そういう意味では、僕は昔から博覧会が持っている豊かさやおおらかさというものを取り戻した方がいいよ、ということを絶えず言い続けているんです。
 名誉議長さんにオーレ・フィリプソンという方がいらっしゃいます。彼は、博覧会の本質というのは、自分自身を自己改革する能力であり、そして「なにをやったか?」より、「なにを未来へ残したか?」ということが重要だと仰っています。博覧会というのは自己を改革する能力を持って常に変化していくもので、博覧会という一定のスタイルや仕組みに従って、ただモノを組み立てていけばいいというものではないのです。彼は、常にその時代が要求するなにか大きなテーマがあるはずだ、ということを言います。例えば現在、一日1ドルで暮らしている人たちが世界で約12億いるわけです。なんでこんな状況が生まれたのか? だとするといまは、技術開発や新しい物理学のセオリーより、むしろ、どうやったら彼らを貧困から救えるかということが博覧会にとっては大事であると。ただし博覧会は、JICAでもなければ難民救助基金、あるいは国境なき医師団でもありません。博覧会は博覧会独自のアプローチでこの問題に取り組まなければいけないのです。
 そういった点から今回の博覧会を見ると、少し手を拡げ過ぎて、百貨店みたいになっちゃった、というのが僕の正直な意見です。日本でもいまは百貨店よりも、小さく個性的なお店の方が流行るでしょ。世界もそうなっているわけです。小さいけどもキラリと光るものの集積として、世界を見ようというふうになってきています。今回の博覧会も非常にいい博覧会ですが、もうちょっとコンパクトで、なにかみんながハッと思うようなものがあり、そこから入っていくと世界が見えてくる。そういうものにすべきだったかなという気がします。
 この次の二〇〇八年には、スペインのサラゴサで博覧会があるんですが、これはテーマが素晴らしい。テーマは「水」。関係者が今回の博覧会に来ていますが、彼らは新しい地球儀をつくってきました。それは、エコロジカルな視点と気象学的な視点を併せ持った新しい形の地球儀「エコ・クライメティック・グローブ」というものです。そのプレゼンテーションはとても素晴らしかった。そういう形に世界はきっと変わっていくだろうと思わせるなにかがありました。それこそ、まさに地球をカルチベイトする。地球全体に鍬を入れてあちこちに穴を開けるんじゃなくて、一点から地球を深く耕していくことなんです。改めて、スペインはすごい国だと思いました。
 スペインからは、ガウディやミロ、ピカソなど、多くのヨーロッパの天才児が生まれました。どこに住んでいたかは別として、みんな血はスペインですよね。そのスペインが今度、サラゴサで「水」をテーマに博覧会をやる。水は、21世紀でも一番大切なテーマのひとつです。サラゴサは小さな町ですから、会期も3ヶ月で、観客動員も七〇〇万人と小規模な博覧会を考えているようです。これからは、キラリと光る小さな素敵なお店をつくる方が、世界にアピール出来るんだと思います。
 それから僕はよくギリシアに学べと言います。彼らはアルス(芸術)とテクネ(技術)、このふたつしか言わなかった。世界はここしばらくテクネに偏りすぎたと思います。これからはアルス、いまの言葉で言うとアートをもっと考えなきゃいけませんね。理屈を集めて世界を創るのではなく、人間のイマジネーションで一点を突破して、未来を創造する。そうしたビジョンが、これからの地球を創っていく時には重要だと思いますね。
 20世紀の人物でそれを一番よく言っているのが、実はアインシュタインなんです。彼は、“Imagination is more important than knowledge”と言っています。ものを創るにはナレッジ(理屈)より、イマジネーションの方が大事であると。そして、イマジネーションを培うためには、絵を描くことが大切だと。抽象的な議論を積み重ねるよりも、それは形としてはこういうもんだということを具体的に絵に描きなさい、と。有名なアイシュタインの相対性原理ですが、最初は「無限に光に近い速度で走っている汽車にいるとして、もしその汽車のなかで走るとすると、光よりも早いものはないわけだから、どういうふうに世の中は見えるのか?」、そういう思考実験から生まれたのです。彼はいろんな意味で物事の本質を見抜いていたと思います。しかし、いまから一億年後もアインシュタインの理論が絶対かというとそうじゃない。「世の中に絶対的な真実なるものはなく、世の中の全ては仮説である」と彼自身言っています。しかし、その仮説こそが、人類の飛躍を生み出してきたのです。

高橋―現在、万博についても情報化が進んできており、実際に行って見なくても万博のテーマや知識、情報に接することが出来ます。ただし、その知識や情報にはイマジネーションが伴っておりません。観客は、実際に万博の会場でモノと遭遇することで、知識以上のイマジネーションと感動が得られるのだと思います。

―仰るとおり、いまはコンピュータ、インターネットなどの情報技術を駆使すれば、家にいたって万博の持っている情報量は得られるわけです。しかし、博覧会ではそれが現実にモノとして目の前にある。それが博覧会というものの本質なんでしょうね。しかし今回は、いろんなモノを集め過ぎちゃったような気がします。そうでなく、品数は少なくても、そのモノ一点一点が深い視点を持っている。そんな博覧会にしたかったし、今後はそういうふうになっていくでしょうね。
 結局、博覧会とはなにかというと、広い意味で言えばコミュニケーションのシステムなんです。だとすれば、どういう形のコミュニケーションが一番人間を豊かに、かつ幸福にするのか? それを考えるときに、次の博覧会の姿がひとつ見えてくるのではないでしょうか。 
 現在の、キリスト教徒とイスラム教徒の問題でも、結局はコミュニケーションの問題です。非常に歪んだ形のコミュニケーションになっているからですよね。宗教や神ではなく、なにかもっと善き人間の本性、無限の本性に基づいてコミュニケーション出来ないのだろうか? こうしたことを考えると、やや抽象的だと思いますが、やはり愛というのがひとつのキーワードになると思います。「愛・地球博」というのは小泉首相のネーミングですが、これはなかなか素晴らしいと思っているんですよ。愛と地球博のあいだに・が入っていますが、僕はこれを種だと言っています。僕は今回の博覧会が、未来の地球で花開くための「愛の種蒔く地球博」になってくれればいいと思ってるんです。これは単なる「愛・地球博」とは大きく違いますよ。種というのは植物独自の生命持続の装置で、数千年、数万年持つわけです。この自然界の仕掛けをもう少し人間性に引き寄せて、イマジネーションを働かせた時に、僕は新しい博覧会の姿、そして新しい地球像が見えてくるんだと思います。

ボランティアを育てる環境学習

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こいの池

高橋―これまでの万博では、建物や展示装置などの、いわゆるハードがコミュニケーションの触媒として使われてきましたが、今回はそれに加えてランドスケープを触媒にしていることも大きな変化だと思います。太陽や月、星空などとの関係を意識的に取り入れたのも新しいコミュニケーションを生み出す試みなのでしょうか。
泉―この博覧会がいままでの博覧会に比べて優れている点のひとつは、イベントのスペシャリストや建築家などの専門家だけでつくっている博覧会ではなくて、博覧会の歴史上初めてNPOやNGO、ボランティアといった人たちが運営を支えているという点です。今回の博覧会では、毎日三万五〇〇〇ものボランティアの方たちなどのグループ、ユニットが働いているんです。それはすごく自慢してもいいことだろうと思います。
 実は、日本のボランティアというのは国際的に見ると、まだ入門編なんです。例えば、一番ボランティアが進んでいるアメリカなんかに行きますと、ボランティアが持っている経理・会計事務所には、政府の会計事務所より優れたシステムや人材が集まっています。最終的には一カ所で、アメリカ全土の何千というボランティアの経理計算をやっているんです。そうした一つひとつの小さく個性的なものを集めて、ひとつの大きな組織として動かしていくという仕組みが、ようやく日本にも少しずつ入ってきたところです。今回の博覧会は、日本の初等クラスのボランティアが、アメリカのような大学院クラスのボランティアに育っていくプロセスとして、非常に大きな意味があると思います。彼らは、毎日の実践のなかで自分たちに足りない点を日々学んでいます。
 ボランティアだけじゃなくて、一般の人もそれを学んでいます。例えば、ひとついい例を挙げますと、世界に通じる日本の文化の代表的なもののひとつにティー・セレモニー、お茶があります。今回の博覧会では、開会の2年半前に、お茶栽培のスペシャリストの人たちが集まって会場にお茶の木を植えたんです。日本一のお茶の産地、静岡のスペシャリストたちが、ボランティアとしてお茶の木を会場に植えて、育てているんです。ちょうどオープニングの時にお茶が摘めるように工夫をして、そのお茶でもってオープニングのティー・セレモニーをやって、見事に成功ました。来た人たちはみんな喜んでお茶を飲んでいるわけです。ボランティアの人たちが、企業に負けない素晴らしいお茶をつくって下さるということを現実の問題として見ているわけです。「この美味しいお茶は、この日のために2年半も前から、お茶の専門家がボランティアとして参加してつくったものなんだ」ということをボランティアが実際に活躍している姿を見て、みんながお茶を飲みながら学ぶわけです。そういう博覧会というのは、この博覧会が初めてです。
高橋―普段、自分たちの生活の身の周りでしていることも、万博の会場で改めて体験することで見方が違ってきます。その気付きという体験が、たくさん得られるということは面白いですよね。

―いままでの万博にはそういうものはありませんでした。昔の万博では、国家というものが中心でした。最初の大阪万博の時は、冷戦の時代ですからパビリオンの配置もいまとは違いました。ソビエト館、アメリカ館、日本館をそれぞれ会場の一番端の三極においたわけです。そして、そこに行くためには真ん中を通るだろうということで、中心に動線をつくって、その他のパビリオンを配置しました。つまり、一九七〇年というのは、そのくらい国家というものが中心だった。しかし、少なくともいまは、いいコミュニケーションをするためには、国家中心じゃいけないということに世界の人たちが気付いてきてるわけです。その時の博覧会とはどういうものだろうか? それについては今回の博覧会で部分部分では随分つくったし、出来ているつもりなんです。
 今回の博覧会の会場の真ん中に「こいの池」というのがあるんです。ひとつには現実に鯉が泳いでいる。もうひとつはラブ、ロマンスの恋。ふたつの意味がかけられている。ここではお猿のショーなんかもやっているんですが、もっと大事なのが、この池に集められて貯まった水を農業用水として再利用しているんですね。自然というものの一番の基礎はなにかというと水系、水の流れなんです。そういう意味で自然の水系、水の流れをそのまま残し、みんながお猿さんのショーを楽しんでいる池が、実は地域の水を集め、農業用水として配っていく生きた池だという点に、みんなあんまり気が付いていないんです。実はそういうものがいっぱいあって、全体の面積の52%くらいは自然が残っています。自然が残っているというのは、木が生えているということじゃなくて、自然の営みを残しているということです。これが今回の博覧会の一番大きな特徴だと思います。世界的に見ても、これまでこういう博覧会はありませんでした。
 これが地元の人にもいい影響を与えているんです。例えば、どうしても道路を通さなくてはいけないところに、木が一本植わっているとします。では木を少し動かすためにはどうすればいいか? ただ植え替えるだけでは本来、移植予定の場所にある自然環境が壊れる可能性があるので、今度は移植予定先の自然のための移植先も考えていく。結局、自然を少しずつずらしながら、自然の生きている営みをそのまま維持して会場をつくっていきました。植え替えの時には、大勢のボランティアの人たちも一緒に手伝いました。するとひとつの木の営みを維持しながら木を動かすためには、どうしなければいけないのかということをみんなも学習します。これを通して、地元の人が本当の意味での環境というものを随分学んでいるんです。「本当の意味で自然のことが分かりました」とか「環境という意味が分かりました。環境というのは身の周りのことじゃないんですね」といった地元の人の意見をたくさんいただきました。最近では、地元の普通のおじさん、おばさんが「環境を生きる」とか「自然とともに生きる」ということを言うようになった。それは博覧会がつくりだした大きな成果です。環境というものを理解している、小さいけど非常に意味のある人たちがたくさん生まれたのです。
 昔、僕なんかが環境問題に取り組みだした頃というのは、環境とは周り(circumstance)、つまり自分を中心として、その周りのことを指すのが一般的でした。ところが最近では、環境と人間はお互いに独立したものではなく、自分もまた環境の一部であり、環境もまた自分の一部であるという考え方が主流になっています。いま言う環境(environment)とはここから来ているわけです。そして、環境にも深いもの(deep environment)と浅いもの(shallow environment)のふたつがあると言われています。大切なのは深い環境の理解、つまり環境という思想を深く掘り下げていくことです。人間が生きていくためにはどれくらい多くの環境が壊され、どれくらい多くの動物が殺されているのか? このことを捉えて、人類を悪しき種として断罪するのは簡単です。しかし、生きとし生けるもの全ては、他の生物の犠牲のもとに生きているわけです。では人間はどうすればいいのか? 周囲の自然を生かしつつ、人間を活かすためにはなにが必要なのか? 博覧会の部分部分にはそうした問いかけもちゃんと用意してあるんです。




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