【文環研レポート Vol22】より

教育、コミュニケーション、解釈
−博物館における批判的教育学にむけて−
〈抄訳〉
Eilean Hooper-Greenhill,‘Education, communication and interpretation: towards a critical pedagogy in museums’

文化環境研究所 特別研究員/国立歴史民俗博物館研究機関研究員  竹内有理


The Educational Role of the Museum

 【抄訳にあたって】

文化環境研究所発行の『Cultivate』Vol.19に博物館に「インタープリテーション」をめぐるアイリーン・フーパーグリーンヒル氏へのインタビュー記事が載っている。氏は、博物館教育の分野では世界的にその名を知られている研究者で、イギリスのレスター大学博物館研究課程で教鞭を取るとともに、博物館教育やコミュニケーション論に関する数々の著書もある。日本ではまだ彼女の著書は一つも翻訳出版されていないので、なかなか彼女の論説に触れることができないが、2002年12月に日本ミュージアム・マネージメント学会の招聘で基調講演を行い、日本の博物館関係者も初めてその生の声を聞く機会を得た。

 フーパーグリーンヒル氏の博物館教育論も時代とともに少しずつ変化を見せているが、比較的新しい彼女の博物館教育論を本紙上で紹介したい。ここに掲載するのはフーパーグリーンヒル氏が編者となっている論考集、The Educational Role of the Museum第2版の冒頭に掲載されている、‘Education, communication and interpretation: towards a critical pedagogy in museums’の抄訳である。この本の第1版が1994年に出版され、第2版が1999年に出版されている。この間に5年の開きがあるが、彼女自身が序章の中で述べているように、博物館教育をめぐる研究が進展したことと、彼女自身の関心の変化を反映して、掲載論考の3分の1以上を新しくしたという。第1版との大きな違いは、博物館教育論に大きな影響を与えた構成主義やポストモダニズムの考え方を採り入れた博物館活動や展示の事例が多く収録されている点である。ここに紹介する論考も第2版で新たに追加されたものだが、ここにも彼女自身の関心の変化を見ることができる。

 例えば、表題にもあるように「インタープリテーション」という概念を強く主張している点が挙げられる。哲学の一領域である「解釈学」を博物館研究の中に採り入れ、博物館と観客との関係を読み解こうとしている。インタープリテーションという単語は博物館や環境教育の場面でよく用いられるが、日本語に正確に訳すのは難しく、どの言葉を当ててもいま一つしっくりこないところがある。場合に応じて「解説」とか「説明」、「解釈」などと訳されたり、展示と観客をつなぐ役割を担う人のことを「インタープリター」と呼んだりする。
 しかし、彼女が使っている「インタープリテーション」という言葉は、もっと深い意味を持っているように思える。伝える側である博物館よりも観客の方に注目している点が特徴的である。つまり展示と対峙したときに観客の中に起こる心理的、精神的、認知的活動すべてに注目するのである。そしてそれらに作用するその人自身が持っている経験、知識、価値観、思想、文化にも注目する。このように博物館でよく使われる「説明」や「解説」という意味には到底収まりきらない深い意味を持っており、観客に主体を置いているところに彼女の「インタープリテーション」の真の意味を見出すことができるのではないだろうか。彼女の博物館教育論を特徴づけていたそれまでのコミュニケーション論に、解釈学の概念が加わることによって、彼女の論説により深みが増したように思える。

 さらに、彼女の博物館教育論を特徴づけているのは、文化的文脈に注目している点である。観客はそれぞれの文化的文脈の中で、物事を見て、理解する。その人自身が背負っている文化的文脈から離れて物事を「解釈」することはできないという制約を抱えているのである。
 このように博物館教育論は学習プロセスだけに注目するのではなく、社会学や哲学の理論も採り入れて、より広い社会的問題として分析する必要があると主張する。それが彼女が本論考で新たに提唱している「博物館の批判的教育学」という文化的アプローチを使って分析する博物館教育論である。

 文化的アプローチが重要視されるようになった背景には、植民地時代の遺産を背負い、ポストコロニアル時代における多文化、他民族との向き合い方が問われ続けているイギリス社会の現実を無視することはできない。日本ではそのような問題をまったく抱えていないわけではないが、認識は薄いといえる。そのような違いはあるが、本論考に書かれていることは、われわれ日本の博物館も学ぶべきことが多い。特に、博物館と観客の関係を分析する方法として、普遍的な問題を提起している。本抄訳が今後の博物館活動を考えていくための何かのヒントになれば幸いである。

 なお、抄訳にあたっては、著者の主張や独自の視点が書かれている部分と、筆者が興味を感じた部分を中心に、その概要がわかるように翻訳した。節の立て方もそれに合わせて再構成しているので、原文とは一致していない箇所がある。また、日本でもすでに紹介されている展示評価や市民参加の重要性や、博物館における学びの特徴について書かれた部分は、紙幅の都合もあり省略した。著者の博物館教育論をより詳しく知りたい人は原著を読まれることをぜひお奨めする。

1.博物館における教育的役割の重要性

  博物館の教育的役割については、その性格も範囲も大きく変わってきた。かつては、学校団体や大人の団体など限定したグループに対するサービスの提供をさしていたが、今日では、展示、イベント、ワークショップなど、その役割はより広がりを持つようになった。それにしたがってエデュケーターの仕事も増え、教育プログラムの運営、実施だけでなく、展示の企画や来館者調査にも関わるようになってきている。

 このような複雑な博物館の教育的役割を把握するのに、3つの言葉が浮かび上がる。「教育」「解釈(interpretation)」「コミュニケーション」である。これらの言葉の意味や関係をめぐっては、博物館界で混乱して使われている。この混乱こそ、博物館教育の潜在的な力をホリスティックに見ることが欠けていることを示しているのではないか。いまだに「教育」を学校の児童・生徒向けのプログラムと見る傾向がある。博物館教育は、矛盾と不平等をかかえる社会の中で存在する、文化施設における教育なのだということが理解されていないのである。
 この章はイントロダクションとなる章なので、本書で扱う様々なテーマについてのまとめとそれぞれの関係について説明する。例えば、構成主義の学習理論がコミュニケーションを理解するアプローチとどう結びついているのか、解釈学(hermeneutics)という哲学的アプローチから分析した場合、博物館の文脈の中で「解釈」というものがいかに有効な概念となるかを説明する。

 文化的分析を行ったとき、博物館を利用するのはだれか、なぜ、どのように利用するのかという問題が出てくる。これは新しい問題ではないが、博物館の教育的役割についてホリスティックなアプローチで考えていくと、そのことはもっと厳密に問い直されなければならない。

 過去30年間に、博物館の教育担当者が専念してきたことは、ワークショップや展示解説、芝居など、来館者と直接触れ合う活動や、教師向けキットや貸し出しキットの提供など遠隔学習を行うためのよりよい方法の開発や、博物館組織内での専門的地位の確立だった。これらは二つともほぼ達成されたといえる。そして今では展示やその他の観客向けのサービスもカバーするようになっている。教育の仕事の場は、もはや「教育室」ではなく博物館全体となったのである。このような「博物館教育」の範囲の広がりは、より幅広い社会的責任を受け入れなければならないということでもある。博物館のエデュケーター(ミュージアムティーチャー、キュレーター、ボランティアを含む)は、博物館の教室を越えて文化的世界を理解しなければならなくなった。このように博物館の教育的役割は「文化の政治学(cultural politics)」の一部となったのである。

 このように発展してくると、博物館教育についての理論分析もその範囲を広げなければならない。もはや学習プロセスについて見ているだけでは十分ではなく、より広い社会的問題についても考えていかなければならなくなった。このようなテーマに取り組むとき、教育理論は社会学や哲学の理論によって補完される必要がある。「批判的教育学」という概念は、学校や大学における教育を文化的視点から分析するものだが、これは博物館においても用いることができる。

 博物館の批判的教育学は、教育活動や博物館を開いていくための活動に関わる方法や戦略、内容について検証する教育アプローチといえる。アクセスや観客の視点、観客との交渉を重視するようになった最近の博物館の動きは、新しい声に耳を傾けることや、従来の叙述のあり方について見直す機会を与えている。博物館の批判的教育学は21世紀の博物館にとって大きな課題となるだろう。

2.博物館の観客研究 マイノリティーと子ども及びその家族に関する調査から

 近年、博物館で観客の反応に関する調査が熱心に行われるようになっている。その結果、博物館に対する観客の反応は一つではなく、多くの異なる反応があることがわかっている。これらの反応は個人によって異なり、博物館に対する期待や要求によっても変わってくる。このため、「一般の人々」という概念は、「異なる観客」という概念に置き換えられるようになった。

 異なる観客についての研究が、博物館やMGC(*1)などの国の機関によって行われはじめている。それらはマーケットリサーチの方法に基づいてはいるものの、小規模な質的調査の形態をとっており、社会学者のいう民族学的、または自然主義の研究に近い。研究の多くはフォーカスグループを通して行われる。

 イギリスの博物館における来館者の傾向について調べた調査報告の中で2つのことが指摘されている。一つはマイノリティー、特に黒人は博物館をあまり訪れないこと、2つめは来館者全体の中で子どもの占める割合が以前より増えたことである。定量的調査から得られたこれらのデータは、あるグループの意識や考え方を探るより踏み込んだ質的調査を行う際の出発点になる。

 これらの調査報告は、二つの主要なセグメント(マイノリティーグループと7才から11才の子ども)に見られた多様性と類似点について提示している。

 『文化の多様性−博物館美術館に対するマイノリティーの人々の意識について−』(MGCの委嘱研究)(*2)は、マイノリティー社会から博物館がどのように見られているかを明らかにしている。この研究は博物館の視点から文化と表象の問題に光を当てた。

 博物館のイメージは、すべてのマイノリティーグループで共通しており、大英博物館のように威圧的な外観をした古い建物というイメージを持っていた。典型的な内容は「国王、女王、王室、軍服、武器、壊れたポットと石」などというものである。博物館の雰囲気は、静かで子どもをあまり歓迎していないというものだった。美術館については、彼らにとってさらに遠い存在であり、エリートの世界として見られていた。展示が難しすぎて理解できないという恐怖も持っている。

 黒人やバングラデシュの人々は博物館美術館を「白人の領域」と考えている。民族や階級、教育レベルなどが、博物館に行くことに影響を与える大きな要因となっていた。マイノリティーの人々は自分たちの生活や文化、歴史と関係のあるものを見たいと望んでいることもわかった。博物館が提示している歴史について、多くの人々が幻滅を感じている。なぜならそれらは白人の視点から構成されており、マイノリティーの人々が果たした役割についてはほとんど取り上げられていないからである。

 多くの人が博物館は一般化されたマスコミュニケーションのシステムの一部であると見ている。例えば、アフリカは大抵、汚い、病気、飢餓などと結び付けられ、プラスのイメージで取り上げられることは少ない。これはテレビニュースでもそうだが、イギリス社会全体の見方でもある。博物館に展示されている資料とその解釈のしかたについて不満を感じている人が多い。

 この研究は、博物館についていくつかの重要な問題を浮かび上がらせた。文化理論やポストコロニアル研究が直接博物館に注目することはあまりなかったが、それらは博物館と観客の関係を分析するのに役立つことがわかった。オーストラリアやカナダの博物館では先住民との関係について向き合ってきたが、イギリスではあまりそうした問題にさらされることがなかった。だからこそ観客研究の重要性が確認されたといえる。

 二つめの報告書(『博物館美術館の観客としての子ども』1997)(*3)もアーツカウンシルと共同でMGCによって出されたものだが、異なる「ターゲットグループ」間の類似点と相違について取り上げている。子どもを連れた家族の意見は、民族の違いにかかわらず、子どもの教育について心配している点が共通していた。この報告書では、子どものニーズに関する特徴について焦点を当てており、博物館での歴史の扱い方への懸念など、エスニックグループ特有の問題については指摘していない。

 マーケットリサーチ会社がこの調査を請負い、子どもとその家族のニーズと意識について調査した。7才から11才の子どものいる家族が調査の対象となった。調査の方法は、定量的ではなく定性的な方法が用いられた。したがってサンプルは小さく(14グループ)、被験者が構成していく意味について焦点を当てている。

 子どもとその親に以下のような踏み込んだインタビューを行った。

・子どもとどこに行くかについてどのように決めたか
・最近博物館に行ったことがあるか。
 どんな経験をしたか。 
・最近博物館に行ったことがないのは
 なぜか。
・他の出かける場所と比べて博物館はどうか  等

 そして次のような結果が得られた。イギリス北部と南部の家族では大きな違いがみられ、中産階級の「美術好き」の家族の子どもは、よく旅行し、コンピュータが使え、いろいろな種類の活動に参加し、自信を持ち、はっきりと話すことができた。一方、あまり博物館を訪れない家族の子どもは、中産階級ではなく、ライフスタイルが様々だった。
 博物館に行くのを妨げている主な障害は、情報がないこと、博物館について知らない、時間がない、博物館はつまらないところだというイメージを持っていること、出費、交通の便、飲食代が高いなどであった。そして美術館はあまりおもしろくないところと見られている。
 若者の博物館体験を改善するための方策として、展示をより親しみのある(accessible exhibits)ものにする、双方向性のあるものにする、オリエンテーション(導入)を行う、創造的なワークショップやテーマ展示を行う、入館料を多様化する、などが挙げられた。
 報告書は、家族がいかに忙しいか、そのなかで博物館は他の施設と競争しなければいけないことを強調している。
 以上の2つの調査研究は、博物館の観客を細分化する必要があることを示している。そして博物館が来館者個人のアジェンダの中に入っていかなければならないことを示すと同時に、それら個人のアジェンダがどのように概念化されるのかを示している。さらに、博物館における観客研究について、改めて理解しなければならないと述べている。

3.新しい調査のパラダイム

 われわれは来館者が何をしたか、何を話したかなど、来館者の行動から博物館体験を分析することに慣れ親しんでいる。このアプローチは博物館で長い間使われてきたもので、1930年代のアメリカのパイオニア的な仕事、イギリスでは70年代、80年代の自然史博物館で行われたことなどに遡ることができる。これらの仕事の多くは、社会は合意の上に成り立っているという前提に立っており、機能主義者の考えにもとづいている。つまり、個人は集団の一部であり、それぞれの集団が社会という機械を効果的に動かす役割を演じていると考えられた。社会や文化の分析における、このような肯定主義者のアプローチは、今世紀のアメリカの社会研究の主流だった。

 社会の性質や役割に関するこのようなコンセンサスは、社会構造によって歴史的に不利益を被ってきたグループを無視している点で、ナイーブといわざるを得ない。それは博物館がそうした人々にとって問題を抱えた場所であるかもしれないということを見逃しているからである。

 来館者の行動にもとづいたデータ収集は、行動観察によって得られたことから結論を導く。その方法は、その行為の意味がその人にとってどういうことなのかを検証していない。もし、それが来館者調査やアンケートを通して集められたデータによって補完された行動観察であったとしても、来館者の中に起こった意味や解釈のプロセスについて注目した調査はほとんどない

 これまでの観客研究は、博物館を中心に置いて行われてきた。つまり博物館がコンセプトを考えるときの核にあり、人々はその核となるものに対して、どのように反応するかを「評価される」立場に置かれた。博物館は人々の生活のなかで中心的な役割を演じていると見ていた。しかし、博物館の外で調査が行われたことによって、博物館が人々の日常生活のなかでいかに遠い存在であるかが明らかになった。博物館で働いている人を除いて、ほとんどの人にとって博物館は遠い存在であり、事実、他の様々な社会施設があるなかで、博物館は最も避けやすい施設の一つなのだ。

 新しい観客研究のアプローチが生まれた背景には、博物館の開放を望む人々によって発展してきた部分と、ポストモダニズムやポストコロニアリズムへの文化のシフトがある。この文化におけるシフトは、「教育」と「学習」の概念の見直しのなかにも見られる。

 今日の博物館では、意味をつくることについて大きな関心が向けられている。来館者が構成していくものを重視しようとする方向にシフトしている。意味をつくるプロセスを研究するために、とるべき方法を大きく変えなければならなかった。初期の来館者研究で使われた実験室モデルから、より社会学的、民族誌的なモードへと変わっていった。それは自然主義の方法や、自由回答形式の調査方法を用いたものである。それによって得られた踏み込んだ調査結果は、極めて重要なものだが、それは博物館の全体的な利用パターンを知るための、従来の定量的調査の必要性を否定するものではない。最も洗練された博物館の調査というのは、両者のアプローチの利点と欠点を信頼できるデータに変えていくものである。

 来館者はそれぞれの事情を持って博物館にやってくることを理解し、来館者の視点から博物館の教育的役割を分析するとき、これまでとはかなり異なる視点で博物館体験を見ることになるだろう。その分析方法の一つは、来館者の解釈のプロセスを理解することである。

 来館者は様々な解釈術(interpretative strategy)を用いて意味を構成していく。それによってつくられた意味というのは、個人的なもので、すでに持っている精神構造や思考パターンと関係している。またその人にとって「重要な他者」(家族、仲間、友達、同僚)の影響も受けるという点で、社会的な側面も持っている。それはその人が所属しているコミュニティーだからだ。さらに政治的な側面もある。個人的、社会的、政治的側面は、階層、ジェンダー、民族によって左右される。このようにみてみると、博物館がいかに文化の政治学の中に深く組み込まれているかが容易に理解できる。

4.解釈のプロセスを分析する

 来館者が意味をつくっていくプロセスや戦略(strategies)について、どのように探っていったらよいのだろうか。意味をつくるプロセスというのは、みずからの経験を意味のなすものにするプロセスであり、自分自身と他者に対して世界を説明または解説/解釈するプロセスである。博物館においては、意味は資料や場所そのものを通してつくられる。それは過去と現在の出会いであり、物質に関する解釈をともなうものである。来館者の解釈のプロセスは、「解釈学」として知られる哲学的運動を通して説明することができる。

 「解釈」という言葉は、個人が物事をどのように理解するかという意味で用いられる。解釈のプロセスは、観る側の精神的行為に注目することによって知ることができる。博物館では「解釈」という言葉がいろいろな意味で使われている。博物館の文脈においては、きわめてあいまいに定義されているが、大抵、他者に対して「解説する」という意味で用いられる。「展示の解説(Exhibition interpretation)」という場合は、展示の意図を人々が理解できるようにデザインすることを意味し、「資料の解説(Object interpretation)」といった場合は、資料と観客の間をつなぐことによって、資料について他者に解説する試みをさす。インタープリテーション担当というと、教育担当やデザイナー、展示担当をさすこともある。

 解釈学の世界と博物館の世界では、「解釈」の使われ方に大きな違いがある。博物館における解釈は、あなたのために、あるいはあなたに対して行われるが、解釈学では「あなた」があなた自身の翻訳者となる。解釈とは意味をつくるプロセスなのである。

 意味をつくること、理解を構築することは、解釈のプロセスを通して行われる。解釈学については、特にDilthey(*4)やGadamer(*5)の方法論が参考になる。解釈の一般的なプロセスというのは、文字から意味をつくるプロセスにもとづいている。Diltheyによれば、理解というのは、部分と全体との間の対話的関係を通じて起こるとする。つまり、全体というのは個々の単語とその関係によって理解される。

 Gadamerはこの方法を用いて文章と美術品について「部分から全体を理解し、全体から部分を理解する必要がある」と説明している。Gadamerは文章を理解するプロセスを経験を解釈するプロセスに関連づけている。この考え方は資料にも適用することができる。

 われわれはある種の偏見やもともと持っている知識によって何かを経験し、物と対峙している。物に対するこのような受け止め方は、「物自体に語らせる」ことを認めながらも、偏見と開示との間のバランスと弁証法を生むことになる(ここでいう偏見とは「バイアス」という意味ではなく「選択」という意味に近い)。この弁証法によれば、偉大なる「真実」に対するわれわれの偏見は見直しを迫られる。この真実というものは、相対的なもの、歴史的、社会的なものでしかない。

 ここでいう「物」は二つの意味を持っている。過去の物証という意味と、「資料研究」とよばれるところの「物」である。重要で意味のあることと思われていたことは、選択の視点や妥当性の変化によって変わるという考え方は両者に共通している。

 どんな解釈も完全ではない。「文章や美術品の本当の意味を発見することは不可能である。それは無限のプロセスである」(Gadamer 1976)。誤解がなくなり、新しい知識が生まれるにしたがい、意味は修正と適用と拡大のプロセスをたどる。解釈学の世界は閉ざされることは決してなく、たえず変化を受け入れている。

 解釈学では、意味の構築はすでに持っている知識や信条、価値観によって行われるとする。われわれは知っていることに基づいてものを見、見たことに基づいて意味をなすようにする。このようにしてわれわれは意味を構築しており、「すでにできあがったもの」ではない。意味の構築は、過去と現在をどう関連づけるかにもかかわっている。したがって、すべての解釈というのは、歴史的に位置づけられたものにならざるを得ない。意味の構築は文化の中に、また文化を通じで行われるので、歴史、文化における自分の位置が意味に影響を与える。知覚(見たもの)、記憶(覚えようとするもの)、論理的思考(ものに起因させようとする感覚)は、文化的な構造物なので、それらは文化によって異なってくる。

5.個人的な意味づけの限界:解釈社会

 意味の範囲には限界がある。解釈のプロセスでは、すでに持っている知識が使われるが、その知識は社会的、文化的なものにもとづいたものだとすると、われわれの解釈というのは、世界の中のある特定の場所に規定されたものとなる。知っていることというのは、ある社会や集団の中で、知らなければいけないことでもある。
 「意味(sense)」というのは、「解釈社会(interpretive community)」によってつくられる。Stanley Fish(*6)によれば、共通の解釈術を使って意味を創造しているのが「解釈社会」だという。解釈術とは、なにかを分析するときの優先順位の高いもの、物について説明するときに使われる言葉、物をみるときのバックグランドや専門知識をさす。例えば、美術史家は自分が研究してきた作品について話すとき、その絵や美術史についてまったく知識を持たない人とはかなり異なる方法で話す。
 これらの解釈術は、読むという行為の前にすでに存在しているもので、何を読み取るかはそれによって決定される。すなわち、博物館の来館者もすでに持っている「読解術(reading strategies)」を使って物と対峙する。何を知りたいかによって、ある方法である特定のものをみる。これが物の意味を決定づける解釈術なのである。
 博物館における意味づくりにおいては、それぞれの解釈社会が観た物を理解するために、自分たちの専門知識や理解の体系、分類の方法、身近な概念などを使う。適切な理解の戦術がなければ、コレクションは意味のないものになってしまう。
 Bourdieuの1960年代の研究に『美術愛好』(*7)があるが、彼は適当な解釈術を持たない来館者は、観たものについて理解することができないと指摘している。
 Fishは専門的な学術知識について言及しているが、それは博物館においてもいえることである。多くの人が博物館は難しいと感じる理由の一つは、解説の学術的知識のレベルと来館者が持っている知識のレベルのミスマッチにある。
 解釈社会は安定したものではなく、人々の移動とともに変化する。解釈社会の中で個人の意味づくりが試され、修正され、支持され、発展していく。解釈社会は意味づくりの限界と制約を持っているのである。
 各人の意味づくりは社会的意味によって支持され、反論される。われわれは社会的、知的、文化的機会に応じて自らの居場所と解釈の拠り所を見つける。Fishのいう「解釈社会の権威」は、意味と表象の構築のレベルに限定されており、意味づくりに影響を与える階層、民族、ジェンダーとの関係の中での個人の社会的位置については十分に説明していない。
 解釈と解釈社会に注意を向けることによって、博物館の観客が意味をつくる戦術を分析することができる。個人や集団は、自分のスキルや知識、アジェンダを使って博物館が提示した学習機会から意味を見出そうとする。それは博物館の観客は「能動的」であることを示している。「能動的な観客」という考え方は、20年来使われてきたコミュニケーション理論だが、それは後述するコミュニケーションのプロセスを概念化する方法でもある。

6.コミュニケーション理論

 ミ解釈学は、人々がどのように自らの体験を意味をなすものにするかという解釈術に注目する。博物館においては、物の意味というのは、関連資料や解説ラベルなどの文字による解釈の枠組みにしたがってつくられる。来館者は自分の興味関心やスキル、すでに持っている知識、解釈術によってみずからの方法で展示されている物について理解する。博物館の側は、対象とする観客に届くように展示をつくる責任がある。

 しかし、多くの博物館では、だれが博物館を訪れるのかといったことや、どのように利用するかをあまり考えずに展示をつくる場合が多い。展示開発は、観客がどのように意味を概念化し、コミュニケーションのプロセスがどのように理解されるかにもとづいて行われなければならない。しかし、このような観客についての理解やそのコミュニケーションのプロセスは、展示の開発のなかでいつも明らかになっているわけではない。

 このことをコミュニケーション理論を使って考えてみたい。コミュニケーションのプロセスを理解する2つの方法がある。それは「伝達アプローチ」と「文化的アプローチ」である。伝達アプローチは、おそらく最も親しみのあるものかもしれない。それは博物館界で1970年代から議論されてきたことである。Cameron(*8)と Knez、Wright(*9)の議論は、コンピュータ技術に関わる情報処理としてのコミュニケーション理論を使って博物館におけるコミュニケーションを理解しようとするものであった。Roger Miles(*10)は博物館にこのモデルを適用することに対して問題を指摘したが、それらは Bicknell(*11)とMcManus(*12)によっても最近再び取り上げられ、批判された。

図1

 伝達アプローチはある人から他の人に情報を送ることを問題にしている。これはマスコミュニケーションにおいて効果を高めたいという願望から発展したもので、刺激に対する反応という教育の見方にもとづいている。ここでは知識は学習者の外側にあり、教える仕事は情報を十分に伝えることとしている。(図1)

 このアプローチは、アメリカに起源をもち、最近までコミュニケーション研究の支配的なモデルとなっていた。伝達モデルは、コミュニケーションを知識豊富な情報源から受動的な受け手への情報の送信と、メッセージの伝達のプロセスであるとみる。このアプローチでは、技術的な視点からコミュニケーションの働きをみており、社会的文化的意味あいはほとんど考慮されていない。

 もう1つのアプローチである文化的アプローチでは、コミュニケーションというのは、現実がつくられる社会全体のプロセスと象徴であると理解する。われわれは、みずからの信条や価値観を、文化的な象徴によって表現するなかで現実をつくっていく。このような考え方は、現在のイギリスのカルチュラル・スタディーズで支配的なパラダイムとなっている。また解釈学や文学理論の考え方とも似ている。ここで使われている教育モデルは、今日、博物館のエデュケーターの間で大きな関心が寄せられている構成主義の学習モデルに近い。

図2

 この文化的アプローチによれば、現実というのは絶え間ない交渉のプロセスを通して形づくられる。それはすでに持っている知識を積極的に活用し、解釈社会の枠組みの中で自分自身の意味を見出していくことである。この全体の解釈のプロセスが、「コミュニケーション」の範疇に入る。コミュニケーションの核には文化があり、文化はコミュニケーションなしには成立しない。(図2)はコミュニケーションの文化的アプローチについて示したものである。

 コミュニケーションの語源は、「共有性」「交際」「コミュニティー」であるが、コミュニケーションは共有、参加、関係のプロセスとして理解される。また、コミュニケーションは、集団や社会を結びつけるプロセスとしても理解される。したがって社会性や相互依存が重要な概念となる。信条や価値観は伝達行為を通じて共有され、開拓されていく。このようにコミュニケーションは文化的プロセスなのである。

 文化的アプローチでは、意味は相互の能動的なプロセスによってつくられる。すべての人が、ともに共有できる解釈をつくろうとするため、信条や価値観が共有されるのである。このアプローチの強みは、すべての人々が意味の構築に積極的に関与することである。弱点は社会的プロセスが不平等であることを認識していないこと、つまり、権力に関する分析が欠けていることである。

 伝達アプローチでは、力関係がはっきり見える。メッセージの受け手は受動的で、単に情報伝達の受け手と捉えられる。意味づくりはメッセージを作った人に限定されてしまう。受け手がメッセージを理解するための自らの方法を持っていることには注目しない。伝達者と受け手の理解が食い違っているとき、メッセージは正しく受け取られなかったと見られる。

 では、これを博物館にどのように関連させることができるのだろうか。コミュニケーションの伝達モデルは、展示開発のプロセスにも適用されてきた。Duncan Cameronは伝達モデルを使って展示開発の一つのモデルを示している。それは、展示開発のプロセスが一直線のもので、観客研究や観客へのヒアリング、評価などを開発のプロセスに採り入れずに博物館の内部だけで展示開発を行うものである。

 1985年にRoger Milesはこのようなプロセスを「不自由にさせる(disabling)」と説明し、展示開発の段階でフィードバックを採り入れることを提案した。イギリスではこれが展示開発において評価が採り入れられた最初のものとなった。

 多くの国々で、来館者調査や市場調査とともに、展示評価が少しずつ発展してきたが、現在はどのように観客が意味を構築していくのか、それが博物館にとってどのような意味をもつのかについて理解することに関心が寄せられるようになった。

 博物館は象徴の使い方、叙述の作成、信条や価値観の表象についてどのように交渉していくことができるのか。展示開発のプロセスは、博物館内部のプロデューサーだけに委ねられるのではなく、観客や他者が共同でアイディアを持ち寄り、展示物や展示のしかたを決めていくべきであろう。互いに参加し、地域/コミュニティーとの強いリンクを通して物事を決めていくことが望ましい。

 実際に、いくつかの博物館でこのような取り組みがみられる。特に社会史に関する資料を持っている博物館や、地域と密接に関係した博物館である。観客の意見を聞き、協働していくことは可能であり、展示やイベントなどの博物館の「商品」は評価を受けるべきであろう。

 評価を行わなかったり、外部の関係者の意見を聞いたり、市民とともに活動しない博物館は、伝達型のコミュニケーションになりやすい。そこでは展示は細分化されないマスの観客=「一般の人々」として扱われる。そして、他の視点を知らないキュレーターの視点でつくられることになる。多くの展示はこのように作られ、成功もしている。しかし、この成功は博物館に慣れ親しんだ、従来の考え方を支持する人たちに限定されるであろう。

 以上みてきたように、コミュニケーション理論から、伝達モデルは「受け手」を受動的なものと捉え、文化的モデルは参加者を能動的なものと捉えることがわかった。「受動的な観客」と「能動的な観客」は博物館の観客について分析したり、展示を検証するときに用いることができる有効な概念といえる。「能動的」な観客が、自らのスキルや知識を用いることができず、博物館の中に入り込めなかったとき、「受動的」なモードを強いられたとき、観客は精神的な苦痛や不適応、疎外感を感じることになるだろう。

7.博物館における批判的教育学

 博物館の教育的役割は複雑である。文化施設における学習について考えるとき、それは文化と教育学との関係について知ることを意味する。個人の学習の方法や、博物館とコレクションが持っている潜在的な教育の力だけに目を向けていたのでは十分ではない。それらを博物館の社会的、文化的役割が持つ知識の中にも位置づける必要がある。Henry Giroux(*13)によって使われた批判的教育学の概念は、文化機関としての博物館と、学習の場としての博物館の関係を考えるのに役に立つ。
 批判的教育学は、児童・生徒が意味を構成していく方法や意味の内容、児童・生徒が持っている信条や価値観に注目する。批判的教育学では、単に意味と向き合ったり、意味を受け取るということではなく、意味を「書く」ことを重視する。しかし、Girouxの批判的教育学は博物館を念頭には置いていなかった。それは学校がやろうとしたことと、実際にやったこととの間の矛盾について考えることの必要性を説くものだった。学校はすべての人に対して教育機会の平等を主張するが、子どもは異なる社会的、文化的背景を持っており、学校での体験もそれによって異なってくる。博物館も同様に、すべての人々に平等であることを主張するが、来館者統計や来館者研究からはすべての人が同じような博物館体験をしていないことがわかっている。
 カルチュラル・スタディーズと教育理論の間に存在する批判的教育学では、知識とは、常に、権力、言語、表象、社会的関係、倫理の間の関係と関わるものとみる。知識や文化は、個人のアイデンティティーを形成するものであると同時に、アイデンティティーはそれらの関係によって形成される。教育の中心的課題は、知識と経験を通じて行われるアイデンティティーの確立であるが、同様に、博物館は個人や集団のエンパワーメントに貢献する潜在的な力を持っているといえる。批判的教育学では、児童・生徒に異なる文化間に存在する様々なアイデンティティーや人間が持つ可能性について考えさせようとするが、博物館はそれを実現することができる格好の場所といえる。
 博物館はひとつにまとまった場所ではない。どの博物館でも、過去から現在まで様々な信念や心情が共存し、異なる価値システムで動いている。このようにみてみると、博物館は一枚岩で不変のものではなく、様々な力や特権が混じりあった多様な歴史、言語、経験、声が出会う場所といえる。このような文化の境界に存在する博物館では、様々な活動が可能である。例えば異なる言語の使用や、異なるグループの参加も可能であろうし、従属的な文化集団が、支配的な文化に対してその単一性を打ち破るということも可能である。
 批判的教育学では、周辺に追いやられた文化を顕在化させ、違いを正当化することができる。物についてもある一つの意味だけを伝えたり、権威的な叙述(authoritative meta-narrative)を提示するために展示を使うのではなく、博物館はコレクションが持っている意味や重要性について交渉し、展示を暫定的な主張として捉えることも可能である。このようなより豊かで掘り下げた可能性を開いていくことによって、博物館は、より多様なコミュニティーに開かれ、コレクションの使い方の幅も広がっていくだろう。
 コレクションを新しい方法で用いたり、様々な文化に開いていくことによって、博物館の批判的教育学は、マイノリティー文化を社会に認められ、正当化された独自の文化に変え、いろいろな個人が達成したことに敬意を払い、多様な考え方があることを提示することができる。このようなことに取り組んでいる博物館では、長い間確立されてきた単一の叙述を壊し、複数の見方を採り入れている。
 批判的教育学から博物館の教育的役割をみると、博物館は文化の政治学の文脈に組み込まれたものだとわかる。それは知識と学習に対する構成主義のアプローチを取る。そして、博物館は文化の境界で交渉を行う場であり、出会いを創出する場でもある。そこでは、様々なアイデンティティーとコレクション、人、物を通して、個人の生活や社会生活のために、さらにはデモクラシーのために新たな可能性を発見していくことができる。
 批判的教育学の考え方を採り入れた博物館では、観客とともに働くことによって、文化の地図を塗り変え、文化の境界を書き変えていくことができる。それが学習者に力を与えることにつながっていく。そのとき、博物館の教育的役割が正当に認められるようになるだろう。



ページトップへ

© 2000-2004 Institute of Cultural Environments